3回目で、やっとすとんと現代の若者の私に落ちて来た。映画「この世界の片隅に」
はてブそろそろ更新しようと思います
ということで、ランダムに引いたお題は
「最近涙したこと」…なんとべたな!
でもあります、
本当に最近、3日前に涙したこと。
それは「この世界の片隅に」を観た時のこと
言わずと知れた、話題になっているこの映画。
私もミーハー心で観に行ったら、どんどんその世界を知りたくなってしまいついに3回目でした(劇場で3回観るなんて初めてでした)
主観になったこと
1回目も2回目も、ずーいぶん泣きました。かわいそう、かわいそう、なんでどうして、ってつぶやきながら。
でも3回目は違いました。
私はなぜかはじめっから自分が語っているように、体験しているように物語を歩みました。
8歳の自分、12歳の自分、私はこうしているけれど妹はどうだろう、あの少年はどうだろうって。で、ろくに知らない人のところにお嫁に行って、道に迷ったり、旦那さんと見つめ合ったり、そして戦争があって…
いろんなところでこの映画は、
戦争を単にすべて悲しい部分で描くのではなくて、その時代の人の喜怒哀楽すべてを描いていて、本当に生きてこの時代を暮らしていたんだと思わせてくれる作品といわれています。
常につらいつらいの非日常ではなくて、その状況を当たり前で仕方のないことと思い懸命に生きていたのだと。それがとてもうまく描かれている気がします。
玉音放送で人が流す「涙」の意味
今回私が、生きてきて初めて理解できたことがあります。それは何度となく見て来た、終戦の玉音放送を聞いた人が涙する場面のことです。
私はずっと、失った家族や様々な犠牲を思って、また神のように思っていた天皇の気持ちや地位低下によるやりきれなさで、泣いているんだと思っていました。
でも違いました。頑張って来たのに、ではなく、当たり前だと思って。それだけを心の柱にしていたから今まで辛くてもやってこられたものがすべて辛さとして襲い掛かって来たのだと。
頑張ったのに負けた、ではなくて、あれは何だったんだ、じゃあなんのためにやったんだ、という言葉を直接痛感するのは初めてでした。いままでに見た映画でもセリフとしてはあったんでしょうけれど。
じゃあ失ったものってなんだったんだろう
さいごの一人になるまで戦うんじゃなかったんかね!
というすずさんの叫びは、帰り道に私自身のこととして重くのしかかってきました。
祖父に喜んでもらおうと、勉強を頑張り将来の夢に向けて努力したこと。
勝つために必要と信じて、部活で血を吐くような練習をしたこと。
もうどうしようもないと思って泣く泣く別れた恋人とのこと。
何かを信じ切ってこそ、頑張れる努力や耐えられる困難がありました。
今まで私が失ってきたもの
それはその時は仕方ないと思っていたけれど、今になってみれば仕方がなくはなかった、そんな、納得ができないものも多いです。仕方ない、って思えなくなったら、途端に世の中にいろんなことは自分に厳しい。
映画の帰り。失ったものを思って泣きながら帰っていたら、
最後にもう8年ほど会っていないかつての級友を思い出しました。何か事件があったわけでもないのに、もう一生会えない気がする。彼は何処で何をしているんだろう。あの時どう関わっていれば、彼と今も関わっていたんだろう。後悔することも多くありました。
でも、「この世界の片隅に」、きっと私も彼も今はいま信じるものを思いながらもがいているんだと思うと、なんかそれはそれでいいな、なんて。
いつだって何かを信じ切って頑張るしかないし、今この時代に生まれた私であることから逃げられないのは、私もすずさんも同じだから。